東京・町田に住む東(あずま)数男さんが、東京地裁に原爆症の認定を求めて裁判をおこなっています。詩人の小森香子氏から東さんについて一文を寄せていただきました。

 東京原爆裁判 東数男(あずまかずお)さんのこと 

       小森香子(詩人)

爆心地から1.3`地点で被爆

 東さんは、被爆後2年ほど、体調がすぐれず、仕事もできませんでした。入院中にアメリカの原爆傷害調査委員会(ABCC)の調査をうけ、明確な「原爆症」と診断されています。このため退院後も継続的な調査をうけていました。 

 
肝機能障害を原爆に起因するとは認めない厚生省

 1981年に健康診断で肝機能障害が発見され、以後、入退院をくり返しています。
 25年前には右脇下からガラス片が出てきました。
 1994年2月16日、東さんは肝機能障害で原爆症の認定申請を出しました。しかし、厚生省は95年11月9日、原爆によって起きたものとは認められない、治癒能力も放射線も影響をうけているとは認められない、と却下しました。 96年1月、却下処分には納得できないと異議申し立てをしました。

東さん裁判おこす

 しかし、国は99年3月9日付でこれも棄却しました。申請から5年以上もたっています。
 このため、東さんは、99年6月29日、東京地方裁判所に申請棄却の取り消し、つまり原爆症の認定を求める裁判をおこしたのです。松谷さんの勝利も大きな励ましになりました。 東京では、原爆症と認定されている被爆者はわすか95人。あきらめている人がほとんどです。判定がおそいため、認定された時はすでに亡くなっていた事例も増えています。2000年6月2日、公判にむかう電車のなかで気分が悪くなった東さんは、検査の結果、肺ガンが判明。7月に手術しました。
 2001年3月2日、厚生省は、東さんの肺ガンを原爆症と認定書を出しましたが、肝炎の方は、依然として原爆症ではないとしています。
 東さんとともに「原爆裁判の勝利をめざす東京の会」が、2000年5月18日発足し、430の個人・団体が入会しています。この3月24日には、東京・大塚のラパスホールで集会がもたれます。 

 東京都町田市に住む東さんは、72歳。1928年長崎市稲佐町で生まれました。
 16歳のとき、山口仙二さんと同じ学徒動員先の長崎三菱兵器大橋工場で被爆しました。
 爆心地からわずか1.3`のところです。


頭や背中にびっしりガラスの破片が

鉄骨づくりの工場はアメのようにねじ曲がり、叩きつぶされ、12000人の従業員中、2000人余が即死しました。
 暑い日で上半身はだかで作業していた東さんは、背後からの爆風で吹き飛ばされ、気を失い、気がついた時は工場の瓦れきの中でした。
 すき間を見つけ、やっと這い出すことができましたが、頭や背中にびっしりガラスの破片がささり、自分では見えなかったけれど、ひとの話では血だらけで、とても生きている人とは見えなかったそうです。

友人をたすける


 あたりは日暮れのように暗くなっていました。近くに下級生が太ももを貫ぬくけがをして苦しんでいたので、300b余り離れた山林に運び、ひなんしました。
 自分の傷をたしかめてみると背中と後頭部が傷だらけ、耳たぶも切れ、左手の肘の下に火傷をしていました。水が飲みたくて浦上川の水を飲んでいると、救援列車動いていると話す人がいて、たすけた友人と一しょに線路までたどりつき、列車のくるのを長い時間待っていました。午後7時か8時、すっかり暗くなってから、ようやく列車に乗ることができ、大村の海軍病院に入院できました。

お母さんと再会

 入院中に毛がぬけ、下痢や高熱がつづきました。1週間ぐらいあとで、お母さんがさがして訪ねてくれました。「工場はつぶれて、数男は死んだと知らされたが、ほんとうは生きていたんだ」と泣いて喜んでくれました。
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