一九四五年三月十日の下町一帯の大空襲につづいて、五月二十九日、こんどは新宿、渋谷、中野、目黒、品川などを襲った山の手大空襲。三月十日の空襲で投下された焼夷弾は千七百トンであったのに対して、山の手大空襲では、投下された焼夷弾は六千九百トンにも達したといわれています。 山の手空襲による死者は四千五百名、中野区でも死者四一八人、負傷者は約千六百人、全焼家屋は約二万戸の大きな被害を受けました。
今回は、中野区の山手通りを中心にして戦争跡を訪ねてみました。
山手通り沿いにある成願寺(中野区本町二丁目)には、いまも防空壕が補強され残されています。総延長三十数bの大きなものです。住職の
小林貢人(とおる)氏が子ども向けに作成した解説チラシ(「防空壕」=平成十一年十一月作成)では、「(空襲から)逃げるため、あちらこちらに洞くつが掘られたのです。学校や駅はもちろんひとつの家にひとつづつ穴がほられました。これが空からの攻撃を防ぐ防空壕です。・・防空壕がほられ、そこへ人々が逃げ込んだ五十年前は・・日本中がかなしい毎日を贈っていたのです。・・防空壕のこわさは戦争のこわさなのです。二度と掘りたくありません」とあります。
空襲で焼けただれた笠つき庚申塔が残されているのは山手通り沿い、区立第十中学の西側にあります。空襲で破壊された破片を地元の方々
が拾い集めてセメントで固めて修復したもので、「石棒さま」(写真右上)と呼ばれています。
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中野区立第十中学の向かい側の山手通り沿いの白玉稲荷神社(中野区中央2丁目))に戦火を受けて焼けただれた常夜灯があります。
赤い木の柵に囲まれて、近所の方が時々清掃して守っています。
山手通りとはちょっと離れていますが、西武新宿線沼袋駅近くに中野刑務所(旧豊玉刑務所)の表門(写真右)が残されています。治安維持法によっ
て小林多喜二をはじめ多くの「政治犯」がここに収容されていました。
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西武新宿線近くの平和公園内の平和記念碑 |
同公園内の平和資料館 |
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