JR中央線高尾駅の南西側にひろがる山稜ー初沢山、金比羅山の山中に浅川地下壕があります。都民の憩いの山、高尾山から三`ほど北東の一角です。
日本がアジア・太平洋地域に侵略をすすめた第二次世界大戦も、一九四四(昭和19)年七月には、サイパン・グアムなどのマリアナ諸島が壊滅し、米軍による本土空襲や本土上陸が避けられない状況になりました。
陸軍は、本土決戦に備えて兵器や軍需品などの備蓄施設として「地下倉庫」の建設を計画、その一つに浅川(現在の八王子市高尾町)が選ばれました。
四四年八月には、陸軍から工事命令が出され、地主たちは半強制的に土地の売却を強要され、朝鮮人労働者千五百人も動員されて、工事がおこなわれました。
この年の十一月には、米軍による本土空襲が開始され、日本最大の発動機工場である中島飛行機武蔵製作所もB29によって爆撃されました。武蔵製作所は、空襲を逃れて生産を続行するために工場の疎開を決断、陸軍と折衝し「陸軍倉庫」の浅川地下壕に同製作所の中枢機能を移転し、その他の部門は福島県の金鉱山の坑道や栃木県大谷の空洞(大谷石の切り出し跡)等に分散して移されました。 |
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浅川地下壕を地下工場にするためには、六本の坑道だけでは足りず、新たに三本の坑道を追加する第二期工事が開始されました。この工事は終戦の日まで続けられました。
この浅川地下壕の規模は、松代大本営地下壕と並んで日本最大級です。
武蔵製作所の浅川地下壕への移転には、生産活動には現在の東京大学、早稲田大学、都立新宿高校、早稲田実業学校などから、数千人が動員されました。生徒たちは、土木作業や地下壕坑口のカモフラージュなど、さまざまな作業に従事しました。
しかし、また地下壕のために湿度が高く加工した鉄製品の表面は翌日になるとさびが浮くなど、効率もわるく、終戦までのエンジン生産台数はゼロから数十台程度と思われます。
こうした戦争の「生き証人」ともいえる戦争遺跡を保存しようと、一九九七(平成九)年、「浅川地下壕の保存をすすめる会」が結成され、壕内の測量調査、地下壕見学会や講演会や会報の発行などを行なっています。また同会ではガイドブッ「フィールドワーク浅川地下壕」(六〇〇円)を発行しています。
この記事は、同会のガイドブックを参考にさせていただき、また同会のご厚意により写真を使わせて頂きました。
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