西武池袋線秋津駅をおりたって南に七分程度歩くと志木街道に突き当たります。この志木街道を右に行くとA洋服大型店(東村山市秋津町一丁目)があり、その脇に小さな観音像が東方を向いてひっそりと建っています。この観音像が「平和観音像」です。しかし意外と近所の人にもその由来は知られていません。
太平洋戦争も末期に近づいた一九四五(昭和二〇)年を迎えるとサイパン方面から飛び立った米軍のB29機が連日のように東京を襲い爆撃をくり返しました。
B29機は、サイパン方面から富士山を目標に本土に飛来し、山梨県で中央本線に沿って東京をめざしました。東村山市の近くには日本最大の発動機工場である中島飛行機製作所があり、また所沢基地が隣接していて、上空をB29爆撃機が常に往来していました。
このうちの一機が地上からの対空砲火をあび、火だるまになって、墜落しました。一九四五年四月二日の朝方でした。落ちた先は秋津町の小俣権次郎(故人)さんの畑地。付近の住宅にも被害が及びました。
乗組員十一名の米兵は即死。墜落現場は、直径四〇bの大きな穴があき、機体も米兵の遺体も無惨に飛び散っていました。
当時、近くに住み、墜落現場を目撃したUさん(六五歳、武蔵村山市在住)は、「米兵の遺体を引きずり回していた人もいた」ことを今でも覚えているといいます。「鬼畜米英」と教え込まれた当時の状況の中でのできごとだったのでしょう。
墜落現場の地主の小俣権次郎さんは「亡くなれば誰でも仏様。敵も味方もない」と観音経を唱えながら、手で土を堀り、遺体の肉塊をひとつづつ集め始めました。周囲の人たちも最初は見ているだけでしたが、ひとり、ふたりと小俣さんと一緒土を堀りはじめ、やがて、その場にいた全員が遺骸集めに加わったといいます。遺体は近くの無縁墓地に弔われました。
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やがて終戦。終戦後も小俣さん一家は、畑地からみつかる遺品を丁寧に保管しました。やがて小俣さんは、異国の地で亡くなった米兵ー目の前で戦死した十一名の米兵のために観音像をたてる思いを強めていきました。
この思いが実ったのが、一九六〇年十一月二十七日。平和観音像が完成しました。その四ヶ月前、権次郎さんは平和観音像の完成を見ることなく亡くなりました。
完成式には、米兵の遺族も参加しました。小俣さんの子息は戦死した乗組員の故郷=テキサス州に招かれ、保存してあった遺品を遺族に返しました。小俣さんの長女は国際結婚をしテキサス州に住んでいます。
こうした市民レベルの日米交流の一方で、日米軍事一体化がすすんでいることに胸が痛みます。
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