東大和市 日立航空機立川工場跡

この項の執筆は   
武蔵野の空襲と戦争遺跡を記録する会・事務局長
   
牛田 守彦氏
東京非核政府の会ニュース 214号に掲載 05.6.20付
   
今回は、多摩地域の戦争遺跡の代表例ともいうべき東大和市の「日立航空機立川工場変電所跡」を紹介します。

 
都立公園の一角に遺跡を保存

  西武拝島線または多摩モノレールの玉川上水駅で下車、徒歩五分ほどの距離に都立東大和南公園があります。公園内の体育館の南側に、その遺跡はあります。
 建物の壁には、無数の弾痕があり目を引きます。これは何度か繰り返された爆撃や機銃掃射によってできたものです。

機銃掃射攻撃受けたエンジン製造工場

 この建物を含む工場は、一九三八年(昭和一三年)に、東京瓦斯電気工業株式会社の工場として稼動を始め、翌年、合併にともない日立航空機株式会社立川工場となったものです。工場では、戦闘機の発動機(エンジン)を製造していました。
 アジア太平洋戦争末期の一九四五年になると、この工場も空襲の被害を受けるようになり、二月一七日、四月一九日、二四日の三回、機銃掃射および爆撃を受け、工場は壊滅、従業員一一一名が犠牲となりました。
 
保存求める市民の運動が実る

  戦後、この工場は一時米軍に接収されましたが、その後は経営母体が交代しながら、変電所ならびに給水塔については、一九九三年まで、ほぼ戦時中の姿のまま使用され続けました。最後は小松ゼノア株式会社の所有となっていましたが、市民による文化財指定と保存を求める地道な運動が紆余曲折を経ながらも実を結び、一九九五年に変電所については東大和市指定史跡となりました。
 しかし、残念なことに隣接していた給水塔(表面は迷彩色に塗られていた)は二〇〇一年に取り壊されました。現在は、給水塔の一部(残骸)が変電所敷地内に移設されています。変電所の方は、保存の対策が施され、現在は都立東大和南公園内に位置しており、誰でもが見ることができます。
 また、東大和市は、朝鮮戦争下には空軍基地となった歴史があり、玉川上水駅北口駅前には、そのモニュメントがあります。
 なお、変電所跡は、内部を公開することもありますので、詳しくは東大和市立郷土博物館(電話〇四二ー五六七ー四八〇〇)にお問い合わせ下さい。



【参考文献】
○ 十菱駿武・菊地実編『しらべる戦争遺跡の事典』柏書房、二〇〇二年
○ 東大和市史編さん委員会編『軍需工場と基地と人びと・東大和市史資料編1』一九九五年



東大和市
戦争を風化させないために市が文化財(史跡)に指定

この部分はニュース編集が執筆しました

東京非核政府の会ニュース 228号 06.9.20付掲載

 多摩湖、狭山丘陵の南に位置する東大和市。その南西部に大和基地
跡につくられた都立東大和南公園があります。

 
爆撃受けた航空機変電所跡

 

 この一角に、壁面いっぱいに生々しい弾痕を残す建物が保存されています。旧日立航空機(株)変電所です。建物壁面の無数の弾痕は、一九四五(昭和二〇)年二月十七日、四月十九日、同月二十四日の三回にわた
る米軍機の機銃掃射や爆撃によるもので、この空襲で百十名余もの尊い命が奪われました。そのすさまじさは「埋まった防空壕から助け出した女性がかじりつき、ガタガタ震えていた」(同市史資料編「軍需工場と基地の人々」)でもうかがい知れます。 工場関係の犠牲者の供養塔が市内狭山の円乗寺に建立されています。
 
平和の大切さ伝えるために

 
 「この悲惨な戦争を風化させず、次世代に伝えるために保存を」という市民や元職員の願いが、一つの運動になり保存が実現。東大和市は、この戦災建物を「東大和市文化財(史跡)」に指定、また建物前の広場を、平和の大切さを後世に伝える地域として「平和広場」(通称名)と命名しました。
模型飛行機が爆撃の方向を示している

 この建物は、一九三八(昭和十三)年、大森から移転してきた東京瓦斯電気工業株式会社(通称「瓦斯電」)の変電所です。瓦斯電は翌年、日立製作所と合併し、航空機部門として日立航空機株式会社が創設され、この工場も、日立航空機株式会社立川工場「立川発動機製作所」と改名され、主に、航空機のエンジンを製造していました。この変電所は、六万六千ボルトの電気を、三千三百ボルトに変電して従業員や家族ら約一万人が暮らす工場内へ送電していたといいます。