執筆は
武蔵野の空襲と戦争遺跡を記録する会・事務局長

                   
牛田 守彦 (写真提供も
 
今回は、東久留米市に足を伸ばしてみましょう。

【自由学園の美しい校舎】

 同市学園町にある自由学園は、一九二一年に羽仁吉一・もと子夫妻が、キリスト教を土台に自治と労働の教育を進めようと開校した学校です。当初は豊島区西池袋にあり、現在、重要文化財に指定されたF・L・ライト設計の「明日館」が建っています。
 一方、東久留米市(旧久留米村)には一九三四年に移転、校舎の一部は、その頃のものを今も大切に使っています。緑も鮮やかな閑静な校地に、木造の美しい校舎が点在します。まるで絵画の中に入り込んだようです。       (写真下)


【影を落とす戦争】

 しかし、この美しい学校にも戦争が暗い影を落としています。正門を入って右手には、聖書の「イザヤ書二章四節」と男子部卒業生で戦没した方の名前を刻んだ慰霊碑があります。

さらに校地の最も奥、図書館の脇に慰霊碑が二つあります。そのうちの一つピンク色の御影石に聖書の一節「地には平和」を引いた慰霊碑は、二〇〇〇年夏、同校女子部二三回生の手によって建立されました。(写真左)



 
 
彼女らは、中島飛行機武蔵製作所に動員中だった一九四四年一二月三日、空襲により同級生の川田文子さんを亡くします。また、卒業後、疎開先の広島で遭遇した原爆で吉岡豊香さんを失います。慰霊碑には「戦争の世紀は二〇世紀で終わりにして欲しい」という悲願が込められています。碑文は、同級生の一人、記録映画作家の羽田澄子さんが書きました。


【立野緑道は軍需工場への引込み線の跡】

女子部高等科が動員されたのは中島飛行機武蔵製作所のほか、西東京市谷戸にあった中島航空金属田無製造所(現・住友重機械工業)でした。同所には、今も当時の門柱が残っています。
東久留米駅からひばりヶ丘団地に向けて、「立野緑道」という遊歩道があります。この道は武蔵野鉄道(現・西武池袋線)東久留米駅から中島航空金属への引込み線の軌道跡です。(写真上)鉄道用地は「非常時」の掛け声で強制的に取り上げられました。
 

【スパイ嫌疑・疎開工場】

 自由学園に話を戻します。戦時中は、学校名の「自由」をやめよとの圧力もかかりました。挺身隊として出動中の卒業生にはスパイの嫌疑をかけられた者もいました。
 また、空襲が強まると同校校舎が疎開工場となり、美しい校舎にも中島飛行機の工作機械が持ち込まれました。

 今は美しい学校にも、こんな戦争の時代があったことを学ぶことは大事ではないでしょうか。(見学する際は、事前に、学校にお問い合わせ下さい。)