北区が平和都市宣言を行ってから今年は二十年目。この節目の今年三月、北区は「戦後六十年ー写真で語り継ぐ平和の願い」を発刊しました。
これは戦後六〇年のいま、「改めて平和について考え、祈り、願い、語り継い」(花川與惣太区長)でいくことを願って発刊されたものです。
写真集は、発行と同時に大きな反響をよんで、当初の五千部では足りず、さらに四千部を増刷。区役所には、区内外の住民から電話や手紙で「いいものありがとう」などの声が寄せられているといいます。
また区内在住で自らも北区で空襲を体験した作家の内田康夫氏が、空襲の回想録「北区炎上」を執筆しています。
第二次世界大戦当時、、北区には東京第一陸軍造兵廠十条工場、同滝野川工場、東京第二陸軍造兵敞王子工場などの兵器工場などの軍事施設があり、都内でも有数の軍都でした。軍用地は北区の一割を占める二〇六万四千平方bに及び、そのためこれらの軍事施設をめがけた爆撃など、何回も空襲を受け一九四五年四月十三日から十四日にかけての空襲では十数万人の人が罹災しました。
五〇ページにわたる写真集には、戦時中の庶民の様子や戦争遺品、戦争の傷跡、戦後の復興や民主化の動きが写真で紹介され、区内の空襲の記録や北区にかかわる戦争の年表も収録されています。
この記念誌にも紹介された、いくつかの北区内の戦争遺跡を紹介します |
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中央公園文化センター(十条台一丁目=写真左)は、かつては「東京第
一陸軍造兵廠本部」(旧陸軍の兵器製造工場)で、戦後は米軍が接収し米陸軍「キャンプ王子」として使われ、一九七一(昭和46)年に多くの区民の返還運動と多くの人々の努力が実り、日本に返還されました。
この兵器製造工場をわずかに忍ばせるいくつかの遺跡があります。
十条台一丁目には、東京第一陸軍造兵廠275号棟(写真左)の赤煉瓦
の建物が残されています。ここは、弾丸鉛身場として一九一九(大正八年に)年に建設されました。二〇〇八年には、この建物はその姿を留めながら北区新中央図書館に生まれ変わる予定になっています。
十条駅近くの十条中学校の校庭を囲む西側の壁は、造兵廠十条工場を囲んでいた赤煉瓦塀をモルタルで覆ってそのまま利用しています。(写真下)
稲荷公園(十条台一丁目)脇
には、陸軍造兵敞の変圧所として一九一八(大正七)年に建設された東京第一陸軍造兵廠254棟の一部が保存されています。(写真右) |