中島飛行機工場や陸軍気象部跡


中島飛行機の発動機の開発・製造工場跡

 杉並区桃井三丁目付近の青梅街道沿いに「ニッサンプリンス荻窪店」(日産自動車荻窪工場跡地)があります。ここが中島飛行機製作所東京工場跡で、飛行機のエンジンの開発・製造を行なっていました。
 現在のニッサンプリンス店の敷地の一角に「旧中島飛行機発動機発症の地」と彫り込まれた記念碑(写真)があります。
 中島飛行機は、一九一七(大正六)年、群馬県尾島町(現太田市)の養蚕小屋を改造して創業、当時は「飛行機研究所」という社名でした。成長した同社は、航空発動機専門工場の必要に迫られ、一九二二(大正12)年、東京近郊の豊多摩郡井荻村(荻窪)に三八〇〇坪の土地を取得。一九二四(大正14)年、東京製作所が完成しました。
 当時の井荻村は環境保全のために公害規制の条件をつけたため、当時は発動機の研究開発部門として出発しましたが、一九三四(昭和9)年、杉並区会は「飛行機製作工場の拡張は国防上緊急」だとして工場の拡張に積極的に協力。戦争の拡大とともに最盛期には五千人の労働者が働いていました。
 一九四四(昭和19)十一月から始まったアメリカ軍の本土空襲は東京の軍需工場が目標にされ、中島飛行機の荻窪、武蔵、田無も爆撃を受けました。この周辺では四十八名の住民が犠牲になりました
戦前ー軍需工場内でも労働者の闘いが

 しかし、戦前の困難な状況下でも軍需工場内での労働者の闘いもありました。一九三二(昭和7)年、工場内の先進的な労働者は平和と労働条件改善をかかげて町内を工場にむけてデモ(「赤旗」同年九月十五日付)を行ない、工場内の職場新聞「ジュピター」(同年十一月四日付)は「俺たちは『人殺しの飛行機、戦争用の飛行機は作らない』、ストライキ」で闘おうと労働者に訴えました。

風船爆弾に深く関わった旧陸軍気象部

 JR高円寺駅の北西の住宅街の静かなたたずまいの一角に馬橋公園があります。ここは旧陸軍気象部(戦後は気象研究所)の跡地です。
 当時陸軍は、一九四四(昭和19)年十一月から翌年四月にかけて風船爆弾を約九千個放流し、アメリカ本土への攻撃を企てました。晩秋から冬にかけ、太平洋の上空八千メートルから一万二千メートルの亜成層圏に最大秒速七十メートルの偏西風=ジェット気流が生じますが、これを利用して和紙やこんにゃく糊で貼り合わせた直径10bの風船爆弾を五十時間前後でアメリカに投下させようとしたものです。これには高層気象の正確な観測が不可欠で、陸軍気象部は高層気象観測を行ない、そのデーターを、打ち上げ基地に送信する役割を果たしていました。
 戦争が終わると旧陸軍気象部は解体され、この施設は一九四六(昭和20)年中央気象台研究部となり、その翌年には気象研究所と改称されました。同研究所の労働組合は労働者の生活と権利とともに平和、民主主義の闘いにも大きな役割を発揮。当会の常任世話人の増田善信氏も副委員長として活躍されました。





参考資料

※ガイドブック「杉並の戦争と平和」(光陽出版社)等を参考にさせていただきました。