広大な敷地の研究所だった
ー「中島飛行機三鷹研究所」 |
この研究所には、中島飛行機の陸軍機体開発部門と発動機開発部門が置かれました。
敷地面積は六〇万坪に達し、中心部が現在は富士重工業東京事業所・国際基督教大学(ICU)となっています。
地鎮祭が行われたのは真珠湾攻撃がおこなわれた日でした。しかし建設は物資不足から遅れ、稼動したのは一九四四(昭和19)年の春から終戦までのわずかな期間にすぎません。
ここで手がけられたのが、アメリカ本土を爆撃するための巨大爆撃機Z機「富嶽」のエンジンでした。しかしサイパン島が陥落した時点で開発中止となりました。その後B29を迎撃するための高々度戦闘機キ87(注参照)が完成します。しかし資材不足から量産は不可能でした。最後にこの研究所が取組んだのが、最小限の物資で簡単に生産できるキ115「剣」でした。体当たり専用機として使用される予定であり、群馬県太田などで計一〇五機が生産されましたが、あまりに操縦が難しかったため実戦には使用されませんでした。
ICUキャンパス内の遺構としては、戦後大改造されていますが機体や発動機の設計が行われた建物が「大学本館」(写真右上)として残っています。また中島知久平(注参照)が住んだ「泰山荘」(写真上)も一部が現存します。
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保育園「椎の実子供の家」およびその付近に、コンクリート製の丸い高射砲の台座4基が残っています(写真右)。一九四三年九月から建設が行われ、調布飛行場を覆うように半円形に六門の高射砲が設置されていました。
一九四五(昭和20)年二月十七日、硫黄島攻略作戦の一環としてアメリカ艦載機がここにも襲来し、応戦したものの四人が戦死しました。
一九四五(昭和20)年四月末に部隊は丸太で作った偽の高射砲を残し、富山県に移動しました。戦友会により一九八一(昭和56)年に「首都防衛高射砲陣地跡」の石碑が建立され、毎年「不戦の誓い」が行われています。
本稿の執筆は
武蔵野の空襲と戦争遺 跡を記録する会
高柳昌久さん
※編集部注
▼中島知久平
群馬県出身。飛行機研究所(後の中島飛行機株式会社)を創立。「飛行機王」ともいわれ、政界にも進出。近衛内閣の鉄相、東久邇宮内閣の軍需相を歴任。A級戦犯に指定されるも、のちに釈放される。
▼中島キ87
アメリカが高度一万bを飛行する戦略爆撃機ボーイングB29を開発中という情報に、一九四二(昭和17)年11月、陸軍は中島飛行機および立川飛行機に高々度対爆撃機用戦闘機の試作を命じ、開発されたもの。試験飛行五回で終戦を迎えた。 |