本年三月一〇日は、東京大空襲六〇周年でしたが、マリアナ諸島から飛来したB二九による日本本土空襲は、一九四四年(昭和一九年)一一月二四日、武蔵野町にあった中島飛行機武蔵製作所への爆撃から始まりました。
中島飛行機武蔵製作所は、軍用飛行機のエンジンを造る工場で、日本の全生産数の約三割を占める大工場でした。従業員は、徴用工や女子挺身隊員、勤労動員学徒らを含め約五万人といわれています。同工場は、その重要性のため、合計九回の空襲を受けます。投下された爆弾は、工場だけではなく周辺の住宅地、畑などにも容赦なく降り注ぎました。工場だけで約二二〇名、周辺地域では数百人が犠牲になったと思われますが、正確なところは不明です。
工場跡地は、戦後、米軍宿舎や研究所として再利用されます。「米軍宿舎グリーンパーク」がそれですが、現在は返還され、跡地は都立武蔵野中央公園となっています。面積約一〇万u、「はらっぱ公園」の愛称を持つこの公園は、中島飛行機武蔵製作所の西工場(旧・多摩製作所)の跡地です。
また、東工場(旧・武蔵野製作所)北側部分は、NTTの研究所となり、つい最近まで中島時代の建物と「地下道」(写真)が残っていました。
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現在、工場跡地には戦争の時代を物語るものはほとんどありません。わずかに残るものとしては、「都営武蔵野アパート」三号棟と四号棟の間、自治会事務所の隣に中島時代の建造物があります。今は倉庫・集会所などとして利用されているだけですが、中島時代は東工場の一角にあった変電室でした。大幅な改修工事を経ていますが、重厚な梁(はり)などに半世紀以上の歴史を感じることはできるでしょう。残念なのは、都営住宅の建替えで、取り壊される予定だということです。
このほか武蔵野市内では、緑町一丁目の源正寺に、空襲で傷ついた墓石、(写真上)そして引き取り手のなかった中島工場での空襲犠牲者の遺骨を納めた慰霊碑「倶會一處」(くえいっしょ)の碑があります。
また、八幡町一丁目の延命寺は、戦争の時代を物語る鉄兜(てつかぶと)やゲートルなど、さまざまな遺物を収集しており、不発弾の破片もあります。境内には、平和観音菩薩立像があり、台座には一家全滅を含む檀家さんの犠牲者氏名が刻まれています。
さらには、中央公園から三鷹方面へ「グリーンパーク遊歩道」が伸びています。これは緑町パークシティの場所に戦後作られ短命に終った「グリーンパーク野球場」に向かう引込み線の跡ですが、その大半が、中島飛行機への引込み線の軌道跡を利用しています。こんなところにも、戦争の時代の影が見えます。 |