西東京市は、旧保谷市と旧田無市が二〇〇一年に合併して出来た市で、前回紹介した武蔵野市の北側に位置します。そのため戦時中は中島飛行機武蔵製作所を狙った爆弾により大きな被害を生じました。その傷あとは市内各所に残ります。
《宝樹院の被爆した六地蔵》
泉町周辺は一九四五年四月二日と七日に大きな空襲の被害を受けました。二日は夜間空襲で時限爆弾が使用され、七日は一トン爆弾が使用されました。
宝樹院(写真右)というお寺が住宅街の中にありますが、その本堂の脇に六地蔵と呼ばれる六体のお地蔵さんが並んでいます(写真上左)。ところがよく見ると、頭部を後から付け足したり、体をコンクリートで接合したりしていることに気付くはずです。
実は、これらのお地蔵さんは、この一九四五年四月(七日と思われるが詳細は不明)の空襲を受けてバラバラに吹き飛び、地中に埋れてしまったのです。それを戦後、ご住職さんが掘り起こし、再建したのです。ただし、一体の頭部だけは遂に発見されず、今のようなお姿になったのです。
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《手を失った青面金剛庚申像》
宝樹院の南側の狭い路地の分岐点にユーモラスな石仏があります。正式には「青面金剛庚申像」(せいめんこんごうこうしんぞう=写真左)といいます。多数の手があり、足下に邪鬼を踏みつけ、台座に見ざる・言わざる・聞かざるの三猿が掘り込まれた手の込んだ石仏です。
しかし、この石仏もまた空襲の「被害者」です。四月二日の空襲により、手のいくつかを失い、体の表面には無数の傷が残りました。
《爆死者を慰める石仏》
宝樹院の北には如意輪寺というお寺があります。ここには、「和楽地蔵」と呼ばれるお地蔵さんがあります。これはこの地域から出征し戦没した方々およびこの地域で爆死した方々を慰霊し、二度とこのような戦争を繰り返すまいとの願いを込めて、一九六三年に檀家有志の手によって立てられました。
また宝晃院というお寺にも「爆死者供養地蔵菩薩立像」(写真右)があります。
この地域は、一家全滅に近い被害も少なくなく、傷付いた石仏や慰霊碑は、そうした六十年前の惨状を今に伝えています。
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