古刹・相即寺の地蔵の一体にランドセル



 東京八王子市の陣馬街道筋を北西に向かい中央高速道の高架をくぐるとやがて右手に名刹・相即寺(そくおうじ)があります。寺のお堂は、近くの八王子城が秀吉に攻められ落城した時の犠牲者でこのお寺縁りの戦没者を供養するために造られたもので、中には一五〇体のお地蔵様が安置されています。


 このうちの一体は六十一年間、黒いランドセルを背負い続けてきました。「ランドセル地蔵」と呼ばれています。



児童文学者・古世吉和子さんが調べ上げた悲劇

 この「ランドセル地蔵」の由来は、人々にはあまり知られていませんでし
た。八王子市出身の児童文学者・古世古和子さんが時間をかけて調べてその真相がはっきりした悲しい出来事です。


機銃掃射受け
痛いよーの一言残し


 一九四四(昭和十九)年六月、米軍の都市空襲が激しくなり子どもたちの強制疎開がはじまりました。八王子市には約千二百人の子どもたちが都内から疎開し、品川小学校四年生(当時は国民学校)だった神尾明治(あきじ)君も、お兄さんや級友と一緒に疎開先の保育所「隣保館」(同市元八王子地区)で生活を始めました。こんな子どもたちを米軍機P51の機銃掃射が襲い、弾が明治君の体を貫きました。一九四五(昭和二〇)年七月八日です。「お兄ちゃん、痛いよー」の一言を叫んで幼い命が奪われました。

面影に似た地蔵に遺品のランドセルを

 悲報を聞いて駆けつけお母さんが、わが子の死を悲しみ、形見になってしまった明治君の遺品のランドセルをわが子の面影に一番良く似た堂内のひとつの地蔵尊に背負わせました。ランドセル地蔵の由縁です。その半年後お母さんもなくなられてしまいました。

 いまでも堂内にはそのランドセルを背負った地蔵さんがあります。
 古世古和子さんは、この悲しい話を題材に「家出ねこのなぞ」(一九七九年)、「ランドセルをしょったじぞうさん」(一九八〇年、「新日本出版社」)を書き上げました。