渋谷区 戦争に動員された忠犬ハチ公(像

忠犬ハチ公を「戦争遺跡」に含めることが妥当かどうか、いろいろな意見があるでしょう。

 金属回収令で 供出させられた初代のハチ公像

 中国への侵略、そして太平洋戦争。戦局の悪化、物資の不足のなかで一九四一(昭和十六)年八月三〇日、国家総動員法にもとづいて金属類回収令が公布され、同年九月一日施行されました。家庭の鍋、釜から貴重な文化財に至るまで金属類の供出が強制され、一九三四年八月に建立された忠犬ハチ公像も供出を命じられ、一九四四(昭和十九)年、戦地に赴くことになってしまいました。現在のハチ公像は、一九四八(昭和二十三)年八月に再建されたものです。

修身教育にも利用されたハチ公

  またハチ公は、文部省の国定教科書の修身、小学二年生用の巻に「オン ヲ 忘スレルナ」(恩を忘れるな)と題して教材に選ばれました。戦争中の修身教育にも利用されましたが、ハチはどんな思いだったでしょうか。

秋田生まれのハチ公

 ハチの生まれは、秋田県大館市。生まれてまもなく、東京帝国大学(現在の東京大学)教授の上野英三郎氏に飼われることになりました。上野氏の自宅は、渋谷の現在の東急百貨店本店近くだったといわれています。
 ところが斉藤氏が大学で急逝。飼い主がなくなった後も毎日渋谷駅前で主人の帰りを待ち続けたとされ、東京朝日新聞の記事により世間一般に知れ渡り、主人を慕うハチの一途な姿は人々に感銘を与え、「忠犬」と呼ばれるようになりました。
 一九三四年四月、安藤照氏が銅像を作成し、渋谷駅前での除幕式にはハチ自身も出席しました。
 銅像が出来た翌年、ハチはフィラリアで死去し、その剥製は、国立科学博物館に保存されています。


注/「忠犬説」に対する異論

出典: フリー百科事 典『ウィキペディア』

毎日渋谷駅に現れる本当の理由は、駅前屋台の焼鳥屋からもらえるエサが目当てで、ハチ公の死体を解剖した胃の中から焼き鳥の串が数本あった)という説もあります。