昨日(十二月十五日)の朝日新聞の「天声人語」は、先日なくなられた長崎の被爆者・田中チヲさんのことにふれていました。被爆直後に重傷負った赤ちゃんにおっぱいを与えている田中さんの写真は人々に大きな印象を与えました。その二日後に赤ちゃん(次男)がなくなられ、ご長男はもっと早くなくなられたそうです。その田中さんが「何で半世紀すぎても戦争がなくならんとですかな。本当に人間はしょうがない生き物だと思いますよ」と語られていたことを「天声人語」が紹介していました。二人のお子さんを失い、ご自身も九一歳まで被爆の語り部として生きてこられた。その田中さんのことを考えると私たちは一刻も早く非核の政府・非核の世界をつくらなければならないという意思をつよくもちました。
私は一九三〇年生まれで、十五歳の時に終戦になりました。私の父は結核を患っていて十分な栄養もとれず餓死に近い状態で一九四五年四月に亡くなりました。
その父を見送った直後の五月に私は東京・目黒でB二九の爆撃をうけ家を焼かれ、着ていた衣服も焼け焦げただれ、火の海の中で九死に一生をえました。
私が三つくらいのとき、五つ違いの兄を追いかけて男の子と遊ぼうとするんですが「女なんか入れてやらないよ」っていわれ石を投げられて、額に大きなコブができたこともあるんです。私は「同じお母さんのお腹から生まれながら、なぜ私は女の子で、お兄ちゃんは男の子なの、どうして?」と聞くと母は「お兄ちゃんがあんまり可愛い男の子だったので、神様にこんどは女の子のお母さんになりたいと頼んだらあなたが生まれたの」と申しました。
私も大きくなり本当のことを知りたいと思い、それなら理学部か医学部にいって勉強するしかないと思い、一所懸命勉強しました。
私は一九四八年にやっと女子高等師範の理学部に入り、動物学を勉強することに決めました。
新しい制度の下、お茶ノ水女子大学に再入学して、大学の理学部を卒業したのは一九五三年三月。その四月にワトソン、クリック、ウィルキンスによって、DNAの構造と機能が発表されました。いまの生命科学はそこから発展したんですね。
私が大学を出たときには、どうしてヒトの女と男の違いが生ずるかという問題はわからなかったんです。まだその当時、人間の性についてわかっていたのは、一九一二年の論文で男性の染色体は四七本、女性の染色体は四八本。減数分裂するときに男性の染色体はペアを組まないものがあると認識されていました。
一九五六年にやっと人間の染色体は一般的には二十二対の常染色体とXX,XYという性染色体をもっている。XXをもっていたら女性。XYだったら男性。性別は受精の瞬間に決まるけれど、人間としての価値はかわらない。まったくのチャンスの問題で性がきまるとわかったのです。一九五六年までは不明だったのですね。
じゃあどうしてY染色体をもっていると男になるのか。これが本当にわかったのは一九七九年です。さらにY染色体があると生物学的に何が起こるのか、分子生物学的にわかったのは一九八二年です。男と女の問題っていうのは、実はそんな近くまでわからなかったんですね。
最近、映画「武士の一分」をとても感激してみました。日本のかつての社会は男性優位で、男性になにかあると女性は生
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きてゆきずらい。そんな世の中がずっと続いていたんです。旧憲法下では男性はたいへん優位になっていて女性の権利はほとんどなかった。それが一九四七年にやっと現行憲法ができ、その二四条によって「両性の平等」が謳われたのです。しかし、日本で社会的に男尊女卑のしきたりを改善しなければならないということになったのは一九八七年に男女雇用機会均等法が国会を通ってからです。それでも日本はまだ女性の差別がずっと続いていたわけですね。その中で私、大学に勤めていたものですから本当にひどい生活をしてまいりました。
現行憲法で両性の平等が認められたんですが、これは戦争のお陰じゃないかと思う人がいるかも知れません。そんなことではありません。
人間は理性を持っております。先ほど話しましたように人間とは何か、性差によって人間としての優劣はないという問題が科学的に解ってきたのに「両性の平等も認めない日本の政治の基礎はおかしい」ということになれば、それこそ、そのときはぜったい憲法を変えなければ理性的な人間の行動としてはおかしいわけです。ですから平和と性差別のない社会のあり方をうたった現行憲法のようになるのは時間の問題だったわけで科学の発展の基礎の上にあったんですね。
ところが、またその憲法を悪く変えようとたくらんでいる人たちがいる。私たちが理性的に誇りに思って守ってきた現行憲法をぜったい元に戻してはならない。改悪させてはなりません。
先日、革新懇から岡部伊都子さんの「伊都子の食卓」(藤原書店)の書評を二八〇字で書いてくれと頼まれたんです。二八〇字で書くのは大変な仕事なんで一所懸命断ったんですが、相手はなかなか引っ込まない。やむえず書評を引受けさせられちゃいました。じつは昨年(二〇〇五年)八月にNHKラジオで十人の人が「私の戦後六〇年」というテーマで五〇分ぐらいずつ話しました。新藤兼人さん、岡部伊都子さん、鶴見和子さん、それから私など、いろいろな人がしゃべったんです。そのときの岡部伊都子さんの話に大変親近感をもっておりました。書評をお引き受けして大変良かったなと身をもって感激したのは、岡部さんの本はあたたかい言葉で書かれたすばらしい本でした。絞りたてのオレンジジュースの美味しさを教えてくれた次兄は大学を卒業してすぐに飛行機で戦死してしまった。そして大好きなスイカを一緒に食べながら「あなたは野性的ですね」と言った婚約者のお医者さん。その方は大学を卒業して医者になってまもなく軍艦に乗って海の藻くずになってしまった。そのご岡部さんは、ぜったい戦争は起こしてはいけないと思い、そういう運動をされている。そういうことがその本を通じてよく感じられ、ああやはり書評の依頼を断り通さないでよかったなと思った次第です。
二〇〇七年一月十一日の「しんぶん赤旗」の「核兵器のない世界」という見出しの記事をみるとキッシンジャー・シュルツ元国務長官、ベリー元国防長官、ナン元上院軍事委員長が「核兵器のない世界」を呼びかけ、そのためにアメリカの大きな努力を求めた論文をウォール・ストリートジャーナル紙に寄稿したという。悪をあらためるには一刻も早いほうが良いと思う
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